夢・目指すところ・5年ぶりの再会・フルバージョン編

# 中学生の時の夢・あこがれ

# 高校生の時の夢・職業

# 社会人の夢・名を残す

# パナソニック創業100年

# 全国のまちのでんき屋さん

# パナソニックミュージアム・歴史館

 

 

皆さんこんにちは。いつもありがとうございます。

 

今日のブログは私自身の「夢・目標・目指すところ」
についてご紹介したいと思います。

 

 

自分自身のこれまでを振り返ると、
その時々の夢や目標が変わってきています。

 

お読み頂いている皆様ご自身も、
ご自分の夢や希望について振り返って頂ければ幸いです。

 

いつもより少し長くなりますが最後までお読みくださいね。

 

【中学生の頃、抱いた夢・あこがれ】 

 

 

私が中学生の頃、思っていた夢(あこがれ)がありました。

 

それは自分が大きくなったらなりたい職業で
プロのカメラマン
新聞記者
報道関係の仕事
に就きたいと思ってました。

 

 

その理由はすごく単純な経験からです。

 

もうかなり古い話ですが

 

私が中学生の頃、大阪で万博が開催されていました。

世紀のイベントと言う事で、私も大阪の親戚のおじさんの所に泊めて貰い、
吹田の会場へ行きました。

 

その時、その親せきの家に、私のおふくろの方の親戚になる
初めて会うお兄さんも泊まっていました。

 

今まで会った親戚の方とは何か漂う空気が違う事を、
中学生の私も感じていました。

 

聞けばその人の仕事は「プロのカメラマン」
中学生の自分にとっては、
その様な職業の方と会うのは初めてだったので、
何をしても恰好良く見えました。

 

この時は万博会場へ撮影に行くと言う事で付いて行きました。

 

写真を撮る姿や家に帰って来て機材を触る姿を見て、
当時、少年だった自分は
形だけしか見ていないのに自分の将来の目標と決め、
大きくなったら「カメラマン、報道関係の仕事」をやりたいと思ったのです。

 

今考えれば「少年が一時的に持つあこがれ」だったのでしょうね。

 

それにしても新聞記者と報道関係はなぜその時思ったか今は分かりません💦(笑)

 

【高校生の時に受けた影響・将来の職業への夢】

 

高校2年生の時でした。
高校は一応、進学校へ入学しましたが、勉強は得意でもなく、
友達と遊んだり、クラブ活動の剣道部へ行く事が楽しかった時です。

 

もちろん毎日の授業も熱が入りませんでしたが、
数学の授業だけはとても楽しみにしていました。

 

別に数学が好きとかではなく、数学の担当の山本先生が時々、
授業とは全く関係なく、
先生の学生時代の出来事や旅行の話、恋愛話を
いっぱい話してくれたからです。

 

時々、授業時間全ての時もありました。

 

 

もちろん私だけでなくクラス全員が「その特別な時間」楽しみにしていて
先生の青春時代の情景が浮かび上がるような一時でした。

 

しかも、その先生の凄いのは、その脱線した話で私たち生徒の集中力を集め、
キッチリと授業をして成果を残すことでした。

 

たしかに私自身も数学の成績は悪くなかったのを覚えています。

 

この先生の影響はとても強く、全く勉強もしない、出来ない自分なのに、
先生の様な教師になりたいと真剣に考えたのが高校2年生の時でした。

もちろん思っただけで教師になる為に勉強したり、
進路を考えたりはしませんでしが・・・。

 

私の単純な性格はこの時にすでに形成されていたようですね。(笑)

 

【社会人、今の仕事に復帰した後の夢・目標】

 

ご存じの方もいらっしゃいますが私は32歳から36歳までは今の仕事から離れ、
サラリーマンを4年間していました。

 

 

お勤めし始めて4年目の秋に、親父が屋根から転落という大けがをし、
再起不能となり、様々な葛藤の後、今の仕事に復帰することになりました。

 

復帰に当たり、お客様はもちろん、仲間や業界関係者の方々にはもの凄くお世話になり、
そのお陰で今の自分があることはこの先も絶対に忘れることは出来ません。

 

そしてその決意として決めたのが「この業界で頑張って自分の名を残すこと」で、
お世話になった方々へのせめてもの恩返しとして考えました。

 

名を残す・その①〉

 

今から20年前のことです。

 

それまでの町のでんき屋さんの仕事の進め方から新たな方向性を見出し、
全国のどこよりも先駆け実績を残せたのがオール電化取組でした。

 

ただ単に給湯器を買って頂くという事ではなく、
電気式給湯器に交換することで
電気料金の契約が変わり、
家の光熱費の大幅な削減につながる考え方が広く認められます。

 

私どものような小さな店でも頑張れば大きな実績が残ることが証明されました。

 

それがきっかけで業界紙にも連載され、何度もインタビューを受ける事になりました。

 

またそれがきっかけでなんと私のような人間がセミナー講師という立ち位置になり、
約10年間、通算で300回以上、ほぼ全国を駆け巡るようなことになりました。

 

お陰様で業界ではかなりの方に私の名前を覚えて頂ける様になりました。

 

あるセミナーが終わり、ふと考えたのが「中学生、高校生の時の夢」で、
カメラマンとは言いませんがかわら版」という長年培った媒体は、
「見方によれば新聞」で、
多くのお客様や業界関係者の方々に知って頂くことにもなりました。

 

また、セミナー講師は「人様に教える」事は「先生・教師」と同じで、
そう思った時に少し形は違いますがある意味で「夢の実現が出来たのではと、
全く自己都合の良い解釈をし、一人ほくそ笑んでいた時がありました。

 

名を残す・その②〉

 

2017年秋・10月4日東京での出来事。

 

全国のパナソニック系列専門店が当時7005店舗
松下電器産業の時代から、全国のでんき屋の代表とメーカー幹部の
定期的な交流がありました。

 

全国を32ブロックに分け、32名の代表者が選出され、
PS会(パナソニックショップ会)連合会長」という名称で、
年間で2~3回の会合が大阪か東京のどちらかで開催されていました。

 

この時、私も和歌山の代表の連合会長として従事していました。

 

時は2017年、翌年2018年はパナソニック創業100周年の記念すべき年であり、
昔をたどれば50年前の50周年の時には当時、全国で約25000店舗のお店から、
お祝いの品としてとても立派な寄贈品を贈っていることを聞いていました。

 

そこで10月4日の連合会長会議の席で100周年に際し、
私たちからも記念品を贈ることを提案し、全員の連合会長からご賛同いただき
「100周年寄贈品プロジェクトチーム」を立ち上げました。

 

そして、この私が代表発起人と言う事になり、
山形・徳重さん、茨城・木村さん、愛知・東松さん3名の後輩の方々と、
チームを結成することになりました。

 

パナソニックからは平さんという方が、
側面からしっかりとサポートして頂けることになり、
10月5日から準備スタートとなりました。

 

しかし、スタート直後、私たちメンバー全員は
「とんでもないことを引き受けてしまった💦」と思う日々が続きました。

 

まず最初に寄贈式典の日程が先に決まっており、タイムリミットは翌年の3月8日でした。
スタートしたのが10月の初めなので5か月間しか、時間はありません。

 

そして私達4名はそれぞれのお店の経営者。
実務もちゃんとあるので時間の捻出も大変でした。

 

更に、これまで全く経験のない寄贈品・美術品を創って送ると言う事が
とてつもない壁になっていました。

 

寄贈品を何にするか?
それをどこに展示できるか?
予算内で収まるか?

 

立ち上げて1ヶ月後の11月になっても何も決められない状態でした。

 

しかし、人の力というのは、時に計り知れないものであることを
この時体験しました。

 

4名のメンバーがそれぞれの役割をキッチリと果たし、
3月8日の式典に間に合わせる事が出来たのです。

 

今年4月8日、あの式典から5年後、発起人3名と平さん、パナソニック代表者で
同窓会的な集まりを企画し大阪に集結しました。

 

愛知の東松さんが病気のため欠席になりましたが、
他のメンバーは奥さんも同伴し、久しぶりの再会で当時の話で盛り上がりました。

 

私たちが最初に集合した場所は100周年寄贈品の展示場所でもある
「パナソニックミュージアム・歴史館」

 

そのミュージアムにある隠れた2階部屋、
誰もが簡単には入れない「貴賓室」でした。

 

部屋の中はとても高価な調度品で埋め尽くされています。

 

 

ミュージアムからは管理会社の社長さん、館長の方、2名の参加。
お二方からの希望で、この寄贈品にまつわる「秘話」をぜひ聞かせて欲しいという事だったので
我々しか知らない話をいくつか披露しました。

 

秘話その①

 

私たちが寄贈品として選んだのは、
今も風情のある京都・町家にある「箔屋野口・四代目 野口さん」が創る、
「箔画」と言われる美術品になります。

 

(野口さんは以前、NHKBS放送にも出演されています。)

 

漆と金、銀、銅、プラチナの箔(とても薄いもの)を使い、
何重にも重ねて一枚の「作品」が出来ます。

 

制作をお願いしたのが11月下旬、展示する場所が新しく建造されている、
パナソニック創業100周年記念館・パナソニックミュージアムの一番目立つ「ホワイエ」で

 

 

その広さからこれまで野口さんが創られた作品の中でも「最大の大きさ」になりました。

 

年の瀬も迫った12月下旬、野口さんが作品の原案が出来たので確認して欲しいと連絡があり、
すぐに京都まで車を走らせました。

 

今回の作品のコンセプトは「絆」とお伝えし、
加えて100年間のこれまでと次の100年を表現して欲しいと伝えていましたが、
具体的な事は全てお任せしていたので、私としてもどの様な表現になったか
とても興味深く思っていました。

 

野口さんの制作の現場へ初めて通され、そこに待っていたのは「箔画」の下地の様なもので
うっすらと最終仕上がりのシルエットも見えました。

 

 

野口さんが作品について、

「頂いた絆と言うコンセプト、これまでとこれからの100年を
朝日の大海原を飛ぶ2羽の鳥で表現しました」

と話してくれました。

 

そのお話を聞き、私は「はっ」と思いました。

 

それは作品で表現して頂きたかったのは、

 

一番は創業からこれまで私たちお店を通じてメーカーを支援下さったお客様

次に私たちと一緒に頑張って頂いたパナソニック

そして全国で頑張っている私たちお店

 

なので、野口さんにその事を伝え、「3羽の鳥」にして下さいとお願いし、
急遽、鳥を「1羽」増やすことになりました。 

 

 

あの時、私が舞い上がったり、テンパったりして冷静でなかったら
「箔画の鳥は2羽」のままだったということです。

 

秘話その②

 

今回、寄贈品に関してかなり深刻だったのが「予算・お金」の事でした。

 

全国、約7000店舗から寄付を募り、そのお金ですべてを賄う予定でしたが、
全部のお店が協力して頂けるわけでもなく、ある意味、一か八かの所も感じながら
準備を進めていました。

 

寄贈品に関しては一体いくらかかるかもはっきり分からず
予算をやりくりすることが求められました。

 

寄贈品の箔画は展示場所とのバランスが必要とのことで
「横は3.5m、高さは1.8m」の巨大な作品
美術品の搬送は通常よりとても高いと聞かされたので
搬送、搬出、荷下ろしは全て自分たちで行い、
展示に関しては建設に携わっていた
工務店の方にお願いした次第でした。

 

 

私自身もまさか自分の手で搬出し展示を手伝うとは思っていませんでした。

 

数カ月間かけて創って頂いた作品をトラックから降ろし、
展示するまでは大きな冷蔵庫を
運ぶ時以上に神経を使ったのを覚えています。

 

この他にもこの寄贈品にまつわるエピソードはもっと沢山ありますが
また後日、ご紹介いたします。

 

こうして、4月8日、携わったメンバーで再開し懐かしい話で盛り上がりました。

 

また、私の社会人としての「夢・目標」であった、
「名を残すこと」はこの様な形で実現しました。

 

私がこの世から亡くなったとしてもミュージアム・歴史館がある限り残ることは光栄です。

 

想像以上にとてつもなく長いブログになり、申し訳ございませんでした。
また、最後までお読みいただきありがとうございました。

 

もし、大阪に行かれる事がありましたらパナソニックミュージアムもお立ち寄りください。
日曜日以外は大丈夫で見学する費用も要りません。
50年前の歴史館も裏手にあり、昔懐かしい電化製品も沢山展示されています。